◎天地日月
◎心行
◎改まり
天地日月の心になるには松竹梅の心を身に付けることに取り組むこと。

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昭和五十二年一月二日 朝の御理解


X御理解 第七節「天地金乃神は昔からある神ぞ、途中から出来た神でなし。天地は流行る事なし流行る事なければ終わりもなし。天地日月の心になる事肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」


 今合楽で言われる合楽理念という事が、しきりにあらゆる角度から説かれております。その合楽理念の、真を成すもの中心になるものが私はこの御教えだと思うです。所謂天地日月の心になること肝要だと、天地日月の心ほど所謂完璧なものはないのです。その完璧な信心を頂こうとそこん所え焦点を置いて信心のお互いの稽古をさせて頂く。そこに天地は流行る事もなければ流行る事がないから又終わりも無いと。そういう悠久なものに対する取組。これは時代が変わったら此処だけは変わるかもしれない又取り替えられるかも知れないと言った様なものでは無くて、所謂天地の真そのものはいつの時代になっても変わるものではない。

 例えなら地球は滅びても天地の真は変わらない。地球は分かりませんよ、私共が住んでおる地球は分からない、ね。地球上に死相が表れとるとさえ私はお知らせ頂いとるんですから。そこに私共がどうでもひとつ一心発起させて貰うて、地球上にそれこそ和賀心で一杯になる様な信心をさせて頂いて。言うなら人間でももう死相が表れておると。

 昨日私がお話の中に話しました、福岡からの病名がわからんにもう手当ての仕様がない、その苦しみというたら大変な苦しみその為に激しい注射を日に2回打たなきゃならない。昨日お礼に出て来ておった。私が〔〔聞き取り不能〕〕お説教が済んで退らせて頂きましたら、夫婦であちらへ見えてもう本当にもう有り難うして有り難うして泣かずにゃおられんと言うてあちらでお礼を言われました。

 今日の又お話を頂いてまたあの元旦祭のいうなら御比礼に触れてもう只々有り難い。初めて奥さんがもう主人の命は一年しか保てないと言われとった。だから言うならば死を待つばかり。またその注射をしたら必ず続けてしたら一年後には亡くなるそうですよね。それが今日おかげを頂いて居るというのですからそりゃあまあ有り難いだろうと思います。そういう中から信心を分からせて貰い頂かせて貰うという事です。だから天地程叶うたものはないのです、ね。

 そこで私共がここで願わなければならない、いわゆる天地日月の心になる事と、これはもう俺の性分だからという事はもう許されないわけです。自分に欠けておるものはもうそれで良いという事ではない。それでもやはり陰の性格な人陽な性格な人これはね変わる。男が女に成る事も出来ませんし女が男に成る事も出来ませんけれども、ね。これだけは自分の精進努力によって変えられるというのが私がたろうたおかげを頂いて行くことになると思うです。

 ここで貧争病の無い世界とこう言われますが、ね。成るほどお金にゃ恵まれておるけれども家庭的に恵まれていない。家庭的には大変恵まれておるけれどもお金が何時も不自由しておる。又は病気勝ちであると、ね。それは結局足ろうた信心が出けんからである。天地日月の心というほどし厳密にいうて足ろうたものはないのですけれども、私共はそんなわけにはいけませんけれどもこれだけならば自分の精進に依って足ろうた生き方がでける信心。

 私は今日或る人の事をお願いさして貰いよりましたら、『正月のあの松竹梅のね竹だけが大きくて梅とか松とかが小さい所』を頂いたんです。竹と言えばいわば素直となる、ね。松と言えば松という字は木偏に公という字を書いてありますから言うならば大きな心という事です。梅というのは信心辛抱ね、のお知らせだとまず頭に置いといて話を聞いて貰わんとわからん。私その方の事お願いさして貰いよったら、その『松竹梅のいうならあの門松ですよね、竹だけがずぬけて大きくてそれに不釣り合いな松梅というなら松が小さい所』を頂いた。

 だからその竹に相応しい松その竹に梅を配した時に、始めて釣り合いの取れたいうならば調和の取れたいうなら足ろうた信心という事になるのじやあないでしょうか。信心に今、合楽理念に基いてお互い信心を進めて行く上に一番大事なのはこの三つの心ですね。いよいよ寛大に成らなければならないね、いよいよ大きなおかげを頂く為には、それこそ鯨の住む様なおかげを頂く為には大海の様な信心をしなければならない様に、心が小さいねそれで大きなおかげを願うという事はこれは理に合わない分けです、ね。

 ですからまず寛大にならないかん、もうそれには一切が神様の御働きと見る、しかもそれは私に求められる修行と見る、ね。ウ冠に草冠を書いて、見ると書いて寛と読む。ウ冠というのは宇宙の宇、草冠は自然という事、そのそういう働きと見るという生き方。

 言うならば竹は見事にその方は本当に素直な人。ですからその素直心というものは自分が身に付けておられるのですから、これにいうならば松の様な大きな心、気は心公と書いてだから今日は松という字を書いて大きな心という事に聞いて頂かにゃいけません。いよいよ寛大の寛の字を身に付けて行く信心に精進する。これなら精進が出来るでしょう。

 ああ自分ちこの位な事にくよくよする自分はこの位の事に腹が立つ、これではいけない。御理解を頂けば頂く程その事は神様が私に求めたもう修行と言われるのだから、これを修行で受けなければと言うなら堪忍の出来ない所も堪忍をする。忍ばれない所を忍ばせて貰う。そういう修行なら遣ろうと思えば出来るでしょう。赤が白になるというのじゃないですから。

 同時になら自分は辛抱力が足りない、と気付いた人はいよいよ本気で辛抱力を作る修行をさせて貰わなければならない。本気でやろうと思やあ出来る。例えば寒修行とか夏期修行なんかに入りますとね、もうそれこそあれほど普通は出来ない人達が一月間一日も欠かさずにあれだけ一杯の人がお参りしてくるじゃあないですか。だからやろうと思えば出来るんだ。それを辛抱力の強い人は十年でも二十年でもいや一生涯それを続けるんです。

 合楽もそういう方が今沢山有りますよね。例えば朝参りなら朝参りを何十年間続け抜いておるという辛抱強い人が有ります。自分はもうあげな辛抱強い事はでけんばってん、寒修行の時だけはいっちょどうでもこうでもという気持になるから一月間皆が出来るでしょうが、だから一月間出来るのだから二月出来ん筈がない。やろうと思やなら一年間出来ん筈がない。遣ろうと思や一生出来ん筈はない。例えば辛抱力の無い人はです、そういう辛抱力を一月そして二月、そして三月という様に段々辛抱力を作って行く精進をするという事はこれは誰でも出来る、出来るのです、ね。その言うならば素直なもう図抜けて人よりも見事な素直心を持っておる人がそういう辛抱力を作り、所謂梅の花が足ろうたそれに寛大の寛の字である、この寛の字を土台にしていよいよ広い心寛大な心に成らせて頂く信心、そこに松竹梅いわば調和の取れた門松の様なものが出来上がる、ね。そういう私はこの三つが足ろうた時に初めて貧・争・病のない世界に住む事が出来ると思うのです。しかもそれはです言うならば合楽理念の真をなすものだという事です、ね。

 いやあ私はそれは出けんと言うた時がそれまでです、ね。今日は皆さんにそのことの三つのああ自分は辛抱力は強いけれども素直でない、ね。自分はいうならば寛大ではあると思うけれども辛抱力がたりない、又は梅の信心が足りない竹の信心が足りない。又は松の信心が足りないと自分に気付かせて貰うてそこん所を一生懸命精進させて頂くという、そしてそれが足ろうて来る時に初めて足ろうたおかげが受けられるという事になるのです。私は合楽理念を本当に行じるという事は絶えずいつも心行がなされて居らなければならない。心の中に何時も神様を頂き切っておらなければならない。教主さまの御歌にこういう御歌がございます。

 「一生に一度のことが時々刻々絶ゆることなき続きおる今」

とあります。一生に一度の事が時々刻々絶ゆることなく続きおる今、今日、只今、今という時期を大事にせなければならない。こういう信心が出けておったら辛抱力の無い人が、ああ自分がここが欠けておるということをもうとにかく頑張らなければならんではなくてから、それが自ずと欠けておる所が出けれる修行が出来ると心に神様を頂いておりますから、ああここが寛大にならなければならない所、ここが竹の信心、これが松の信心、これが梅の信心という様なおかげが受けられる。だからその基を成すものは自分の心の状態を何時も心行に取り組んで置くということだと思いますね。

 天地は流行る事も無ければ終わりもない。悠久な所謂天地悠久と言われるものであるという事は、天地の真というものは何時の時代になっても変わらない。それは地球がなくなってしまう様な事になってもこの真だけは変わらない。言うならばそれを天地の真理というわけです。その天地の真理のまた真と言うのがこの天地日月の心なのです。

それは又言葉を代えると神の心を心とするという頂き方なんです。ですからやはりお徳が受けられ完璧のおかげが、完璧の信心に入ったというのはそういう信心に取り組むという事、これなら間違いが無いと確信する事、そこに所謂完璧の信心に入ったと言われるのはそういう事なんです。

 だからそれが分かったと言うだけではなくて分かった事を行じて行かなければならない。辛抱強い又は寛大な心、素直な心ということに取り組んで精進させて貰う。そこに言わば姿勢がいる。先日も或る方の霊祭を奉仕させて頂く時に頂いたんですけれどもね、所謂合楽理念という事が盛んに言われる様になって、その時に御霊のお祭りを受けた『霊神様もやはり一生懸命合楽理念をマスタ-しようとして精進しておられる姿』を頂いた。そして心眼に『ゴルフをやっておられる所をね。だからそのゴルフのクラブのね結局こういう風に持つんだよとそしてこういう風に打つんだよと、腰のひねり方はこうだよと言うて指導をしておる人が指導しておる』所であった。

 だからそれをほんならああ分かったと言うてその姿勢だけは分かっても、それを本当に置いたまま打つということはやはり稽古が必要でしょうが。

 今日は皆さんにそういう合楽理念の言わば絶対の信心が生まれてくることの為にこの天地日月の心になること肝要と言われる、天地日月の心ほど完璧な心はない。それはない筈だ、神の心なのだから。

 だからそういう心にうち向かうという事はとてもそんな事は自分は出来んというのではなくて、それをいうならみやすう出来る自分に欠けておるものそれを気付かせて頂いて、いうならば松竹梅の信心に精進させて頂くならばそれがいうならば完璧の信心という事になるのです。それでなら辛抱の足りない人寛大な心の足りない人又は素直な心の足りない人、いやもうみんな足らんなら足らない所をです本気に取り組むという事になるのです。取り組んでいくところから、必ず神様の働きを受ける事が出来るお庇いを受ける事が出来る。そして出来んところは出けたかの様にして精進しておるとおかげを下さるのです。

 ああ又失敗しました、けれども又失敗したもう駄目だと言わずに失敗したことに対して又それに繰り返し繰り返し稽古をさせて頂く。そういう心になると神様が出けんけれども出けたかの様にしておかげを下さっている。松竹梅が信心の松竹梅が足ろうて参りますとなるほど貧・争・病のないおかげというものが伴うてくる。しかもそういう精進をさして頂いておると必ずリズムを感ずる事が出来るね。私共が言うならば神の心に成ろうとする。神の心を心としようとする、松竹梅の足ろうた信心生活をさせて頂こうと精進する、そこから言うならば日と光のリズムが生まれてくる。

 いよいよ明らかに〔〔聞き取り不能〕〕。日を書いて光と書く。それを字引で引きますと日と光の音律とあります。又は輝き光る事だと言われております。字引にはそう説明がしてあります。私はそのお知らせを頂いた時にいよいよ日とは神様である日という字を神様とみる、光というのは自分たちの心から発する信心して頂く所の信心の光です。その光と日が一つになる時にです、神様と私共との間に一つの調和音と言うべきものが生まれてくる。いうなら素晴らしきタイミングが生まれてくる。

 ですからもうそれは大変楽しいもの有り難いものになってくる。その楽しい心有り難い心で自分の欠けておるいわば心に取り組ませて貰うて完璧を目指して行く。しかもこれはまあ限りなく続けて行く。だからその姿勢だけは作らなければならない。そして稽古をしなければならない。そこからいうなら天と地との又は天地人と言いますね、人との調和音律が聞こえて来る様になる。

 そこにいうなら光り輝くといわれる輝き光る事といわれる、所謂光り輝く様な、貧・争・病のないだけではない、真・善・美に輝くけおかげも頂けるという事が分かります。そういう事が分かるという事が合楽理念の内容が分かる事であります。だからその理念に基づいて只今申しました様などうでもその松竹梅が足ろうた信心。

 皆さん一つ良く考えてみて自分には此処が欠けておる、分からん所はそんなら家内に聞いてみる、又は主人に聞いてみる。お前はいつちょあそこは改まらにゃいかんぞと人の事は分かるからね。ああほんにそうだなあと自分で気がつかせて頂いたら、その事に一つ本気で取り組む。その取り組む事その事がもう既に心行なんですから、ね。どうぞ。